倉俣史朗の主な作品と年表

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ぽよんちょおじさん
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かつて、この日本に世界が熱狂する一人の天才がおった。


そう。
彼の名は・・・。

ぽよんちょおじさん
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  倉俣史朗  

ぽよんちょおじさん
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倉俣史朗の凄さは、今の若いもんにはあまり知られてへん。

現在も販売されとる文献は少なく、その有名さと比較して、ネット上にある情報も極めて少ない。



倉俣史朗について、少しでも共に考えていけたらと願う。

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倉俣史朗の主な作品と年表

倉俣史朗とは

ぽよんちょおじさん
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倉俣史朗は、1960年〜1990年代に活躍した日本人デザイナーの一人。
空間デザイン、家具デザインの領域で、独創的な作品を生み出し続けた。

その独創的な創作物から、当時「クラマタ・ショック」っちゅう言葉が生まれたほど。


倉俣史朗の作品は、アヴァンギャルドで普遍的、ユーモラスで繊細。
他者には真似できん、独特な魅力があった。

単なる形状、機能的なデザインに収まらん。
「人間の感性」に訴えかける作品を多く生み出したんや。

今もなお、倉俣史朗の感性に迫るデザイナーは世界的に見ても皆無。

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倉俣史朗が生み出す独創的な作品は、一般的な感性からは想像すら出来ん物がごっつ多い。


なんで、倉俣史朗の作品には「普通ではない何か」が感じられるのか。


その一つの答えが倉俣史朗の生い立ち、生きてきた生活環境にあると考えられとる。

ほな、これから順を追って見ていきたいと思う。

倉俣史朗の生い立ちと経歴。 主な作品発表時期。

生誕〜高校卒業:1934年〜1953年

ぽよんちょおじさん
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1934年11月29日:東京本郷の駒込に生まれる。

1941年:東京 昭和小学校に入学。

1944年:静岡県 愛鷹村小学校へ転校。

1945年:神奈川県 鐡小学校へ転校。

1948年:東京都文京区立第九中学校卒業。

1953年:東京都立工芸高校木材科卒業。

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倉俣史朗が生まれ、幼少期に育った家は、父の勤め先やった「理化学研究所」の敷地内にあった社宅やった。
日当たりのエエ平屋で、庭には椿がやらたと生えとったらしい。
この頃の記憶からか、生前の倉俣史朗は椿の花があんまり好きやないと語っとる。

ただ、理化学研究所は様々な薬瓶、砂、石、レンガ、木材、建築現場・・・様々なおもちゃが散らばっとった。
子供の倉俣史朗には宝の山に見えたという。


倉俣史朗は敷地内にあった、大工の棟梁セキさんの仕事場によく遊びに出かけた。
幼い頃は大工になりたかったらしいんやけど、セキさんの仕事場で見た「青写真」に強烈な衝撃を受けたらしく、幼くして建築家を志す事となる。

この理化学研究所のそばで過ごした事が、後に世界を魅了する倉俣史朗のベースとなった事は間違いあらへん。


後に、戦争がはじまり、静岡へ疎開することとなる。

ぽよんちょおじさん
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倉俣史朗は疎開先では恵まれた環境やったらしく、「嫌な思い出は一度としてなかった。こんな幸福な疎開経験は奇跡で稀だった。」と語っとる。



ただ・・・。
倉俣史朗は、疎開先で自分以外の家族がまんじゅうを食べようとしていた場面にうっかり遭遇してしもた。っちゅうエピソードを面白げに語る事がよくあった。


倉俣史朗は、幸運な疎開っちゅう表現で語っとるけど、やっぱ心の奥底では、寂しさを抱えとったんやろなぁ・・・。


戦争って、残酷や。

ぽよんちょおじさん
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悲惨な戦時中でも、倉俣史朗の優れた感性はその目に見える風景を客観的に、冷静に、感性的に捉えとった。

照明弾、電波妨害の為に空から撒かれる錫箔・・・。

倉俣史朗は、それらを恐怖やなく、美の対象としてすら捉えとった。


戦争・疎開、今となっては特異な経験と、倉俣史朗が持ち得た天性の感性。
2つが奇跡的に交わったからこそ「クラマタ・ショック」が生まれたのは疑うことなき事実や。

就職〜倉俣デザイン事務所設立:1967年〜1965年

ぽよんちょおじさん
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1954年:帝国器材家具工場入社

1956年:桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒業。

1957年:三愛宣伝課入社。

1964年:松屋インテリアデザイン室嘱託。

1965年:倉俣デザイン事務所設立

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倉俣史朗は、東京都立工芸高校木材科の3年やった頃、柳宗理のレコードプレーヤーの洗練されたデザインに感激、同年に丹頂鶴っちゅうニックネームで親しまれとった電話ボックスの合理的デザインに感銘を受ける。

この時、倉俣史朗は初めて「デザインの社会性をはずかしながら初めて認識した。」と語っとる。


写真家になろうか、ジャズ奏者になろうか・・・。
まだ、将来の定まってなかった倉俣史朗がデザインを意識し、明確に志した瞬間がついに訪れたわけや。

そんで帝国器材の家具工場に入社する事となる。

柳宗理のレコードプレーヤー

引用:https://www.shimane-art-museum.jp/exhibition/2020/01/038373.html

丹頂鶴というニックネームで親しまれた電話ボックス

引用:http://syouwa-retoro.blog.jp/archives/1051875630.html

引き出しの家具〜ガラスの椅子:1967年〜1976年

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1967年:引き出しの家具・7本針の時計を発表。

1968年:ピラミッドの家具・透明プラスチックの家具を発表。

1969年:ルミナスチェア・ルミナステーブルを発表

1970年:引き出しの家具・変形の家具・RevolvingCabinet・Bookshelf・スプリングテーブル・壁の椅子などを発表。

1972年:オバQランプなどを発表。
第18回 毎日デザイン賞受賞。

1973年:Illuminated Revolving Cabinetなどを発表。

1974年:磁石と布を使った、空中に浮かぶディスプレイなどを発表。

1975年:モンドリアンへのオマージュ家具・市松の引き出し家具を発表。

1976年:ガラスの椅子・ガラスのテーブル・ガラスの棚・Made to Order(蛍光灯の一部を歪ませた作品)・ゴム足のテーブルなどを発表。

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倉俣史朗の代表作の一つ「引き出しの家具」
倉俣デザイン事務所設立の2年後に発表された。

翌年の1968年には、ピラミッドの家具を発表。

1969年に、ルミナスチェアを発表。

引き出しの家具(1967年)

引用:https://curio-jpn.com/?p=57670

ルミナスチェア(1969年)

引用:https://curio-jpn.com/?p=27875
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1970年には、強烈なインパクトを与えた変形の家具シリーズが生まれる。
加えて、Revolving Cabineto等、引き出しのイメージが強い作品が並ぶ。

1960年代後半〜1970年代の後半まで。
倉俣史朗の引き出しに対するこだわりが、特に強く感じられる時代やね。

ピラミッドの家具(1968年)

引用:https://www.italia-kagu.com/product/pyramid-2/

変形の家具(1970年)

引用:https://curio-jpn.com/?p=13469

Revolving Cabinet(1970年)

引用:https://www.ambientedirect.com/en/cappellini/revolving-cabinet-chest-of-drawers_pid_2684.html
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1976年には、名作「ガラスの椅子」を発表。

このガラスの椅子は、数々の逸話が残された名作中の名作や。


この頃、倉俣史朗は、日々ガラスを美しく接合出来る技術を探しとった。
当時、シリコンの接着くらいしか方法がなく、お世辞にも美しいと言えるものやなかったんや。

そんな中、新しい接着技術が開発される。
それが、ガラスの椅子に使われたUV硬化型の接着剤「フォトボンド100」や。

「フォトボンド100」は、従来のガラス接着の常識を覆す、美しい接着面が特徴的やった。

その接着性能を見た倉俣史朗は、ものの30分程度で一枚のスケッチをかきあげた。


それが、「ガラスの椅子」やったんや。


そのスケッチを受け取るやいなや、三保谷ガラスの三保谷友彦はさっそくガラスを磨きはめじた。

いち早く、倉俣史朗にプロトタイプを届けるために。

デザイナー倉俣史朗と、職人三保谷友彦。
二人がおったからこそ、名作「ガラスの椅子」が生まれたっちゅうわけや。


ガラスの椅子」は限定40脚の製作。
大阪にある国立国際美術館にも、そのうちの1脚が収蔵されとる。

コレクション展で出てくることがあるから、要チェックや。

ガラスの椅子(1976年)限定40脚

引用:https://curio-jpn.com/?p=27875
ぽよんちょおじさん
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そうそう、「ガラスの椅子」は世界に19個しか無い1/6のミニチュアが存在するねん。

ぶっちゃけ、オリジナルの硝子の椅子より製作台数の少ない貴重品や。

2008年にギャラリー「夢のカタチ」のオープンを記念して、オリジナルの硝子の椅子同様に、三保谷硝子で作られた。

硝子の厚みも正確に1/6。
なんちゅうても、本物の「硝子の椅子」が収められた運搬用の木箱まで1/6サイズで完璧に再現した、こだわりのミニチュアチェアやねん。


三保谷友彦が他界した今、まず増産されることはない奇跡の倉俣プロダクト。

手に入れた人は幸運やね。
ひかえめに言うて、家宝にしてエエレベル。
大事に持っとくんやで。

ソラリス〜メンフィス時代:1977年〜1984年

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1977年:Solarisを発表。

1978年:光の棚を発表。

1979年:01チェア・無極Ⅰ・無極Ⅱなどを発表。

1980年:スパイスセットを発表。

1981年:第1回 日本文化デザイン賞受賞。

(1981〜1984年):ミラノのデザイン運動「メンフィス」に参加する。

1982年:Sofa with Aimsなどを発表。

1983年:KYOTOテーブル・NARAテーブル・Lamp A・NIKKO・ウィスキーボトル・三本脚の椅子などを発表。

1984年:Sedia Sedutaを発表。

Solaris(1977年)

引用:https://curio-jpn.com/?p=42275

スパイスセット(1980年)
倉俣史朗デザイン:スパイスセットの購入先

引用:https://www.designshop-jp.com/shopdetail/004008000036/

Sofa with arms(1982年)

引用:https://www.italia-kagu.com/product/sofa-with-arms/

ビギン・ザ・ビギン〜ミス・ブランチ:1985年〜1988年

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1985年:ハンマーハウス・Lunedi・トワイライトタイム 45° North Latitude・KO-KO・Apple Honey・Sing Sing Sing・Begin the Beguineを発表。

1986年:割れガラスのテーブル・ヨゼフ ホフマンへのオマージュvol.2・Just in Time・How High the Moonなどを発表。

1987年:バーLUCCIHNO・傘立て・SAMBA-M・水素の夢・SALLY・三本脚の椅子・HALなどを発表。

1988年:ミス ブランチ・コパカバーナ・Bon Appetite・Bent Glass Table・Coupe de Foudre・バーCOMBLEなどを発表。

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ここで、倉俣史朗最大の問題作。
ヨゼフ・ホフマンへのオマージュ第一弾。

ビギン・ザ・ビギン」が発表される。


あえて、問題作っちゅう表現をした理由は、その驚愕の製作方法。

1.ヨゼフ・ホフマンがデザインした椅子にスチールを巻きつける。
2.燃やす。

エグすぎる。

あまりにも恐ろしく、あまりにも大胆。
恐怖すら感じる発想は、倉俣史朗の生きてきた世界がそうさせたんやろう・・・。

ぽよんちょおじさん
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オマージュっちゅう言葉の重み、責任感、覚悟・・・。

全てを受け入れ、全てを乗り越える覚悟、生命すら超越した精神力がないと、この作品「ビギン・ザ・ビギン」に正面から向き合うことは難しい。


ビギン・ザ・ビギン」の実物を見た感想は、「恐怖」「嫌悪感」「神聖さ」「儚さ」「あやうさ」「死」「生」「抜け殻」「形とはなにか」・・・・。


ありとあらゆる感情が交錯して、吐き気を催しそうなくらい、人間の感情を揺さぶる力を感じる。

これほど、人間の心に入り込む家具を、わしは見たことがない。
今後も「ビギン・ザ・ビギン」を超える感情の揺さぶりを体験できる家具が現れることはないと思うわ。


Begin the Beguine(1985年)

引用:https://pds.exblog.jp/pds/1/201206/07/64/a0142564_17154452.jpg
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1988年は、倉俣史朗最大の名作とされる「ミス・ブランチ」が発表される。

倉俣史朗=薔薇っちゅうイメージがあるくらい、衝撃を与えた作品や。

ミス・ブランチ」は、世界一美しいとされる椅子。
透明のアクリルに浮遊する、安っぽい薔薇の造花。
アルマイト加工された、パープルの4本脚。

たったそれだけやねん。
せやけど、この椅子を前にすると、誰もが言葉を失う。

もはや、椅子なんか?っちゅうくらいのエゲツなさ。


華やかで可憐、夢の中のような風景。
反して、どことなく「死」のイメージが漂う魅惑の椅子。
それが、「ミス・ブランチ


ミス・ブランチ」もまた、数々の逸話が残された椅子。

長くなるから、「ミス・ブランチ」の話はまた別の機会にするわ。

ミス・ブランチ(1988年)

引用:https://www.phillips.com/detail/shiro-kuramata/HK010117/33?fromSearch=kuramata&searchPage=1

エフェメーラ〜最期の刻:1989年〜1991年

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1989年:エフェメーラ・カビネ ド キュリオジテ・ブルーシャンパン・バーオブローモフ・鮨屋KIYOTOMO

1990年:ショップSPIRAL・フラワーベース・Acrylic Stool・アモリーノ・ハンガーなどを発表。
フランスの文化省芸術文化勲章を受賞。

1991年:ISSEY MIYAKEの香水瓶・ラピュタなどを発表。

1991年2月1日:急性心不全によりこの世を去る。

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倉俣史朗の死因は急性心不全。

まあ、過労死って言われとるね。

当時、ISSEY MIYAKEの店舗デザインで相当な数の案件が動いとったらしいし、身体的にかなり無理をしとったんやろなぁと思う。


最期は、自身の身を持って「命の器の儚さ」をわしらに教えてくれた。


倉俣史朗の作品は、時代が進んでも色褪せへん。
単なる形状を越えて、そこには明確な意思、性格、個性が存在しとる。


倉俣史朗の作品は全てが彼の分身や。

倉俣史朗は、器を変えて今もなお、世界中で生きとる。


その生産の難しさから、倉俣史朗が残した作品はどれも生産数が少ない。
貴重な作品(倉俣史朗の断片)を手にしたキミ。


離さず、大事にするんやで。

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